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2006年03月21日 19:38 [Edit]
b.hatena.ne.jp ヒト、モノ、カネより大切なものとは、居場所、なのではないだろうか。
その思いは最近特に強くなってきている。
先進国の若者(と、まだ不惑に達していない私が言うのも何だが)たちの「まったり」とした不満と不安というのは、ほとんどそれに由来するのではないかとすら思う。
確かに彼らは「不足なしに」育って来た。しかし彼らは薄々感づいているのである。
それが実は与えられた者ではなく、未来の自分たちから奪われて来たものであることを。
H-Yamaguchi.net: 賃上げより前にやるべきことこれまで若年層の雇用機会が極端に不足していたのは、企業が「既に雇われている人たち」の雇用維持を最優先にしたからだ。これは、必ずしも経済原則にしたがったものとはいえない。もちろん、新規に雇用するより既にいる従業員を使いまわすほうが暗黙知を生かすなどの点で有利だということはある。しかし、企業の現場を多少なりとも知る者としていわせてもらうと、実際のところは、そういった合理的な理由というよりも、現在既に雇われている人を厚く保護する労働法制の影響のほうが大きいような気がする。雇われているのは、より付加価値が高いからではなく、既に雇用されているからだ。つまり、労働市場において、市場万能主義が跋扈したことではなく、法制度のために市場メカニズムが働かなかったことこそが、雇用機会の世代間不均衡をもたらしたのではないか。
大竹文雄のブログ: 若者の所得格差拡大
第二は、既存労働者の既得権を過度に守らないようにすることである。解雇権濫用法理では、従業員の解雇を行うためには、新規採用を抑制して雇用維持努力をしていることを一つの要件としてあげている。既存労働者の雇用保障の程度が高ければ高いほど、既存労働者は賃金切り下げに反対する。それは結果的に、若者のフリーターを増やし、所得格差を拡大することになる。
Espresso Diary@信州松本:「娘、息子の悲惨な職場」。
娘や息子たちが消費者として安さや便利さを追求してゆけばゆくほど、社会人である父親たちは、ますます生産性を上げ、在庫を圧縮し、ひいては若い労働者を厳しい条件で雇用することを求められる。これが「娘、息子の悲惨な職場」というタイトルの隠れた意味なのだと思います。日本の就職活動の厳しさは、たんに「今年は大変だ」とか「採用が増えた」という目先の話ではなく、それまで大切な「お客さま」として扱われたきた学生が、ある時期を境にして突如「売る側」の厳しさに直面するところにあるような気がします。
かといって、私は既得権益者たる、「居場所を得たもの」たちの心情もよく「わかる」。かつてこうした「居場所」というのは、時が経てば自分に「まわってきた」ものなのだ。少年は青年に、青年は壮年に、壮年は老年に、そして老年は死へ。引っ越しはまさに「神の見えざる手」によってなされてきた。
もちろん市場がオーバーシュートしたりアンダーシュートしたりするのと同様に、急な空きが出来たり逆にまだ引っ越し先の退去が終わっていなかったりといったことはどの時代にもある程度はあったものだ。しかし、これほど「上がつかえた」時代というのは、人類はいまだかつて経験していないのだ。
ともなると、とりえあず「今そこにいる者」は、「上が空くまで」引っ越しを留保するだろう。するとそこに引っ越す予定だったものも保留し、結果誰も身動きを取れなくなっているというのが、今の先進国を覆う空気のように思う。
「だから、未だ『居場所』を得ない若者のために場所をゆずりましょう」という意見はもっともだ。しかし数多の「まっとうな意見」と同様、そうはならないのは、居場所をゆずる側が何を得るかがはっきりしないという点も大きい。「立ち退くのは結構。しかし移転先はどちらへ?」と尋ねられても返す言葉、いや場所がないのだ。
それでも、私は軒先を貸す。たとえ母屋を取られても。
一つは、私には「場所はいつでも作れる」という根拠に乏しい、しかし無根拠ではない自信があるからだ。「自らの居場所を確保する能力」に対する自らへの期待を今まで私は裏切らずにすんできた。
私は実は世の中皆が恐れるほど狭くないということを、「皆」よりは少々知っている。いや、実はそれを知っている人がそれほど少なくない事まで知っている。人はそれを「大した者だ」とか「一人前」だとか呼ぶけれど、だから私はそのこと自身は大したことだと思っていない。もちろん取るに足りない事だと言うつもりもないけれど。
本当にすごいのは、人に居場所を与えることなのだから。
それに比べたら、ヒト、モノ、カネをこさえるというのはままごとにも等しいとさえ思う。
その意味で、香山リカが呼ぶところの「貧乏クジ世代」を私はすごいと思う。私自身は、試行錯誤の末やっとこういう考えにたどり着いたが、彼らは実に自然に「居場所の融通」をやってのける。
「いや、それが出来る人と出来ない人の格差が広がっているんですよ」と言われればそうでもあるのだが、私にとって驚きなのは、それが自然と出来る人たちが存在するということなのである。電車男とかNDOメソッドというのは、かつてはほとんどありえなかったと思う。彼らは実に自然体に素直で、自然体にわからないことをわからないといい、そして自然体に与えている。彼らにおける虚勢の不在は驚きに値しないだろうか。
彼らの特徴は、平然と足りないものを要求しつつ、足りているものは鷹揚に与えていることにある。
ずうずうしいという言い方もあるかもしれない。身の程知らずという言い方もあるかも知れない。しかし私はこれを進化だと捉えている。かつては与えるという行為は、必要以上を得て始めて可能ではないかと理解されていたと思う。礼節は衣食が足りなければありえないはずだったのだから。
ところが、今では衣食が足りないということこそありえない。なのに礼節をいつまでたっても学ぼうとしない「上の世代」こそ「厨房」なのだと彼らの目には映っているのではないだろうか。
「今の若者」の不満が、かつてのように暴力的な動きにならない理由がそこにある。彼らは上の世代を「憎んで」はいない。彼らは軽蔑しているのだ。
「上の人たち」には、それがわからんのだろうか。
私としては、憎悪には耐えられても軽蔑には堪え難いのだが。「いや、今の居場所は軽蔑されようが手放さない」というのであれば私としては言う事はなにもないのだが。
しかし、寿命は伸びたのであってなくなったわけではないのだ。永遠の居場所など存在しないのだ。つかえていたところでいつかそこは空くのだ。
居場所は大事であるが故に、そこにしがみつくのはかっこわるい。
「上の人たち」を動かすのは、案外こういった感性に訴える方法やも知れない。「利系」な私には苦手なのだけど。
Dan the Rolling Stone
「周囲をすべて軽蔑する世代」とかなかったっけ。それをちょっと思い出した。
僕はすでに人に譲ることができない。「若い人たち」と、いまだに子供な僕が言うのも何だが、「若い人たち」を軽蔑し、しかし脅威に感じ、譲ることができない。おそらく僕がこのまま大人にならずに大人になったら、譲ることはできないだろう。
この事と、優先席を避ける事と、失うことを恐れて得ようとしない事と。
「ゆずる」って漢字で「譲る」って書くんだね、ジョージ。そういう意味だったのか。ひさしく名前に意味があることを忘れていたよ。