経営者としてはすごいのかもしれないけど。
セミナーレポート『反乱、内乱、騒乱、混乱を乗り越えて』
東京コンピュータサービス株式会社 代表取締役社長 高山允伯 氏セミナーレポート 『反乱、内乱、騒乱、混乱を乗り越えて』
1971 年、28歳のとき、コンピュータの知識ゼロ、資金ゼロでコンピュータ管理会社を創業。以来34年間一度も赤字を出さずに成長を続け、今やグループの従業員数1万人余、売上1800億円の大企業に発展。一見順調に成長軌道を歩んできたように見えるが、内実は従業員の反乱や大混乱が頻発し、氏はそれらを粘り強い負けじ魂で乗り越えて今を築いてきた。今回初めてその実態を赤裸々に明かしていただき、逆境をチャンスに変える創業者魂を語ってもらった。■ コンピュータの使用権を得るユニークな契約
東京コンピューターサービス(株) 代表取締役 高山 允伯 氏 創業のときの最初の仕事は、ある縁で損害保険料算定協会のコンピュータ室の管理を受注しました。就業時間後の夜間の管理を請け負ったのです。そのとき、大変ユニークな契約をしました。協会からは管理費を1円もいただかず、代わりに管理時間1時間につき、30分のコンピュータの使用権をいただいたのです。協会には当時の最新のコンピュータシステムが設置されており、それを外部の会社に又貸しすることで利益を得たのです。最新のシステムを貸すのです。当然、管理費とは比べものにならないような多額の収入を得ることができました。このユニークな契約を結んだことが事業スタートの基盤になり、わが社が単なるオペレーターの派遣会社では終わらなかった要因となりました。
ただ実際は、日々混乱の毎日でした。私自身、コンピュータの知識がなく、専属の従業員もいない。学生バイトを20数名確保して業務をこなすような状況だったので、トラブルが多発、その対応に追われました。
しかし、誠実にトラブルに対処したため、協会との仕事は10年間続き、次のステップへ飛躍するジャンピングボードとなりました。
■ 世の中が不景気だからこそ思い切った大量採用
いよいよ次の事業展開に取り掛かりましたが、知識は無いわ経験は無いわで、大混乱の日々でした。コンピュータ用語辞典を隠し持って、営業活動に飛び回るような状況でしたが、持ち前の馬力で、ある会社から50本のプログラムの開発を受注しました。しかし、当方の能力が追いつかず、その内の30本が納期に遅れる可能性がでてきてしまったのです。そこで受注側の担当者に実情を話し、発注会社の社員にアルバイトで開発を手伝ってもらうという、なんとも無茶苦茶なことをして乗り切りました。
技術者が一人もいないバーチャル会社ですから、このような混乱は日常茶飯事。このままでは会社は立ち行かないと思い、会社を大きくしなければならないと覚悟しました。われわれの業界では、会社を大きくするためには技術者の数を増やすしかないのです。そこで技術者の採用活動に取り組みましたが、わが社のような名も無い会社に入社してくれる人なんていません。採用難が続きました。しかし、世の中が不景気になり就職難になれば、わが社にも優秀な人材を大量採用するチャンスがあると信じ、機を伺いました。
最初が、1973年の第1次オイルショックのとき。人づてで、ある専門学校から優秀な技術者を20数名採用することができました。そして次が、1978 年の第2次オイルショックの後。50名以上の大量採用です。当時の社員数が百数十名ですから、社員の3人に1人は新人になってしまうという、無謀なことを断行したのです。■ 急成長による社内のひずみ
このことが社内にさらなる大混乱、大反乱を巻き起こしました。当然のことながら新人は研修期間を経なければ利益を生み出しません。一人前になるまでの間、ベテラン社員の稼ぎから給料を払うことになります。そのため、ベテラン社員の中に「自分たちの稼ぎが、無謀な大量採用で入社してきた新人達に食われている」という不満がふつふつと沸き起こってきたのです。その不満を利用し、役員の一人が反乱を起こしました。
ベテラン社員を扇動し、社長追放運動を展開。社内に「社長辞めろ」の怒号がこだましました。いい加減嫌気のさした私は、その役員に社員を全てくれてやると宣言し、全員を解雇しました。社員は一気に3、4名に激減しました。しかしこれが幸いしたのです。わが社のようなシステム会社のコストといえばほとんどが人件費。それがほぼゼロになったところに、過去の仕事の売掛金がドサドサ入ってくるという状況になり、むしろ社内の資金は潤沢になりました。
一定期間をおいて採用活動を再開し、新体制を作りました。しかし、相変わらず社内の混乱は相次ぎました。挙げていればきりがありません。いろいろ反省した結果、原因は社内の管理体制が不十分な点にあるという結論に達しました。今度は管理職層を大量に中途採用し、管理体制強化に取り組んだのです。驚くほど優秀な人材が集まり、過去に採用難で苦労した私は嬉しくなって、来る人来る人、皆を採用しました。しかし実際は玉石混合で、大部分は石ばかりでした。
税理士資格を持った人が入社してきたので経理部長に就けたところ、その人物は過去に詐欺事件を起こしていて、なんと在職中に逮捕され、当然出社しなくなりました。わが社の経理処理でもごまかしをしており、1年後の財務調査でそれが明らかになるという体たらくでした。
また、優秀な営業担当役員を採用したと思ったら、3年間にわたって下請業者と結託して会社のお金をごまかしていたという事件も起こりました。
良い人材の確保と育成が、経営にとっていかに大事なことかを身にしみて感じました。
■ 人生すべてを仕事に賭ける! その姿勢が逆境をチャンスに変える
そんな紆余曲折を経て、何とか会社を成長させてきましたが、91年から92年に最大の危機が襲ってきました。バブルの崩壊です。契約先に派遣していた社員が契約を切られて続々と戻ってくるのです。1,800人もの社員が狭いオフィスにあふれかえり、社員が座るところもなくパニック状態になりました。
この時、私は止むを得ず指名解雇等の荒療治を断行、何とか危機を乗り切りました。
辞めていただいた社員の方には、大変申し訳なかったと思っています。しかしながらこの荒療治によって、人材の質・量の面において強化を図ることができ、その後の発展の基盤を築くことができました。
同時に、ソフト業界の潮流が大きく変化していたのをいち早く捉え、それに対応できたのが今日の成長の基礎となりました。その変化とは、メインフレームからオープン化へのシフトです。徹底してオープンシステムの技術者育成に力を入れました。現在、携帯電話のシステムやコンテンツの分野でも事業を展開できているのも、このときの投資が生きているといえます。このように見てきますと、傍目には順調に成長を続けてきたように見えるわが社も、内実は恥ずかしい限りの反乱、混乱、騒乱の連続でした。会社の明日を考え、眠れぬ夜も少なくありませんでした。しかし、私が数々の逆境を乗り越えチャンスに変えることができたのは、人生全てを仕事に賭け、どんな状況下でも決して諦めずに戦い続けたからです。
私には、創業以来30年以上、仕事以外に打ち込む時間は無かったといっても過言ではありません。家庭も顧みず、家族には申し訳ないことをしたという気持ちも無いわけではありませんが、私自身が仕事一筋の人生を楽しみ、ビジネスに成功し、大いなる満足を得ていることで、許してもらうしかないでしょう。
最近の若い人は、ゲーム感覚で事業を起こし経営をしているように見受けられますが、私にとっての経営とは、その対極にあります。事業とは、荒地に鉄道をひくようなもので、常に逆境に直面しながら、その問題解決のために24時間考え、行動することによって初めて達成可能なものです。経営とは、それくらい人生を賭けるに値するものだと思っております。
さまざまな逆境を乗り越え、事業が発展するときに得られる満足感、達成感が、事業家の本当の楽しみだと思うのです。これは人生を賭けて、経営に取り組んだ者だけが享受できる醍醐味なのではないでしょうか。
このレポートは4月14日に行なわれたセミナーを要約した。文責・ダイヤモンド経営者倶楽部事務局
●講演者・〓山 允伯(たかやま・まさのり)
1943年群馬県生まれ。66年早稲田大学第一商学部卒業。71年、東京コンピュータサービスを創立。74年株式会社として設立。順調に会社を成長させ、 90年、独立系ソフトウェア企業として、通産省システムインテグレータ認定企業になる。99年の武藤工業〓との資本業務提携を皮切りに、多くの企業の M&Aも手がけ、40数社の関連企業を率いるまでに至る。
これを読んだ感想を、正直に、率直に、簡潔にまとめると、
[これはひどい]
協会からは管理費を1円もいただかず、代わりに管理時間1時間につき、30分のコンピュータの使用権をいただいたのです。協会には当時の最新のコンピュータシステムが設置されており、それを外部の会社に又貸しすることで利益を得たのです。
これについては、すごい、ような気がする、わかんないけど。